平成30年秋の特別展 躍動する明治-近代日本の幕開け- (前編)

国立公文書館の 平成30年秋の特別展は、春の特別展に続き明治150年特集です。
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木曜と金曜は夜8時まで開館時間を延長していますが、6時から外でプロジェクションマッピングをやっていました。
3分ほどでしたがきれいな映像でした。
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「躍動の翼」については既報のとおりです。


第Ⅰ部 明治維新と新たな国づくり

わりゆく地図
廃藩置県の結果、当初は3府302県が設置されました。その後、統合が進み、明治4年11月の時点で3府72県、明治22年には3府43県となりました。展示資料の「大日本図全図」は、内務省が作成し、旧幕府時代 の地図に、明治4年11月時点の府県の配置を記人したものです。
大日本図全図』 ヨ291-0310
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富岡製糸場の設立 『公文録』 公00456100 1-2/55
富岡製糸場附図 『公文録』  公00456100
明治3年、ブリューナが実地検分を行った結果、群馬県甘楽郡富岡町の陣屋跡を建設用地に選定しました。「公文録」には選定の経緯などが記されています。

富岡製糸場その後 『公文録』 公03365100 1-2/58
富岡製糸場は良質な生糸を生産したものの、創業以来、赤字経営が続き、内務省の速水堅曹((1839-1913)を中心に、たびたび民間への払い下げが提案されました。資料は明治14 年、農商務卿西郷従道が富岡製糸場の払い下げを提案した際の文書です。この時は、西郷の提案は受け入れられませんでしたが、明治26 年、富岡製糸場は三井に払い下げられ、官営工場としての役割を終えました。
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新たな通貨「円」  公02087100  公02322100
国立銀行条例で認められた銀行は紙幣を発行することができました。明治10年、1円紙幣と5円紙幣が相次いで制定されました。展示資料は大蔵省から太政官へ提出された1円札、5円札の見本です。イタリア人のお雇い外国人エドアルド・キヨソネ(1833-1898)がデザインし、 表には1円札は「水兵」、5円札は「鍛冶屋」が描かれ、裏には共通して 「恵比寿」が描かれています。
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学制の公布   『公文録』  公00671100 8/65
明治5年8月、「学制」が公布されました。我が国初の近代的学校制度 を定めた法令です。全国を8つの大学区に分け、その下に中学区、小学 区を置き、各学区にそれぞれ大学校・中学校、小学校を1校ずつ設置す ることとされました。資料は、教育の目的を説くために学制公布にあ たり発せられた太政官布告です。

徴兵令   『公文録』  公00666100  7-8/84
明治6年(1873)1月、徴兵令が発せられました。 徴兵令では、男子は満20歳で徴兵検査を受け、検査合格者の中から抽選で兵役に服させることとしました 。展示資料は「公文録」に収められた徴兵令の緒言で、徴兵令制定の経緯が書かれています。

地租改正   『公文録』  公00865100 9-10/121
明治6年(1873)7月28日地租改正条例が公布されました。地租改正 は、土地収益から地価を算定する、その地価の100分の3を地租とする、旧来の石高制に基づく物納から金納に改める、豊凶にかかわらず地租を増減しない、地券所有者を地租納税者とすることなどが骨子となっています。資料は、「公文録」に収められた地租改正条例です。

地券 地券 武蔵国下谷区上野山内元西四軒寺跡 平25文科00025100
明冶4年以降、新政府は土地の所有者と地価を明記した地券を発行しました。地券は明治22年に土地台帳規則の制定とともに廃止されました。展示資料は明治13年にに東京府が文部省に対して発行した地券です。黒い変色や損傷は、大正12年(1923)の関東大震災の際、保管されていた文部省の庁舎が全焼したことによるものです。
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秩禄公債証書見本  附A00017100
廃藩置県の結果、秩禄(華族・士族の家禄、維新の功労者の賞典禄)は 国庫から支給されることになり、政府の極めて大きな負担になりま した。明治6年12月、政府は、禄高100石未満の者が奉還を望むときは、 その禄高に応じて就業資金を下付することを決定します。資金の半 分は現金で支払われ、残りの半分は、秩禄引換公債証書が交付されま した。展示資料は、「公文附属の図」に含まれる、明治7年に大蔵省から 太政官に提出された秩禄公債証書の見本です。

秩禄処分  『公文録』 公01905100  1-2/24
明治9年8月5日、金禄公債証書発行条例が公布されました。政府は秩禄の支給をやめる代わりに、全ての受給者に5-14年間分の価額の 金禄公債証書を交付することとしました。これを「秩禄処分」といい ます。資料は秩禄処分に関する、大蔵卿大隈重信から太政大臣三条実美に宛てた伺いです。

西郷隆盛の辞職  『公文録』 公01005100 1-3/4
明治6年、新政府の政策をめぐる対立から、西郷隆盛は辞職し、鹿児島に帰郷します。西郷の辞職をきっかけに、西郷と考えを同じくする人々の多くが政府を去りました。。資料は西郷の辞表提出に関する書類で、参議・近衛都督を辞した(陸軍大将の辞職は認められなかった)西郷が、鹿児島への帰郷を願い出た際の記録です。

西南戦争の勃発  『公文録』 公02030100 2/4
明治10年1月、鹿児島県の士族が同県の陸海軍の施設から兵器・弾薬などを奪取。この動きに九州各地の士族が同調し、西郷率いる反乱軍は、翌月、熊本城を包囲し、政府軍と激戦になりました。資料は、内務卿の大久保利通に対して、鹿児島県内の海軍造船所が襲われたこ おおやまつなよし とを報告する鹿児島県令大山綱良の電報(訳文)です。

西南戦争の終結  『公文録』 公02192100 34/44
9月、政府軍は鹿児島を制圧し、西郷らの死によって、半年以上に及ぶ反乱、西南戦争は終息しました。資料は、太政大臣の三条実美に対して、城山の戦いが終わり、反乱軍を鎮圧したことを知らせる征討総督有栖川宮熾仁親王の電報(訳文)です。


第Ⅱ部 立憲政治への道のり
民I撰議院設立建白書と 『日新真事誌』   建00012100 1,4/19
 板垣退助や後藤象二郎、江藤新平、副島種臣ら8名は、明治17年1月17日、左院に、民I撰議院設立建白書を提出しました。この時、板垣らは政府内部の対立から参議の職を辞し愛国公党という政治結社を結成していました。
 建白書の内容は、翌日、イギリス人J.R.ブラック主宰の新聞 『日新真事誌』 に公表されたことで、一般に広く知られました。この建白書の提出を契機として、自由民権思想が次第に国民の間に浸透していきました。
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明治14年の政変と国会開設の勅諭
 自由民権運動で掲げられた要求には、国会開設・憲法制定・地租軽減・地方自治・条約改正などがありました。国会の開設は、他の要求を 解決する前提条件と考えられ、これを請願する運動が展開されました。 一方、政府の内部では、国会開設の方針を巡って意見の対立が起こ りましたが、急進的な主張をしていた大隈重信が下野したため、漸進的に国会開設を実現する方向で一致していくことになりました(明治14年の政変)。 この結果、明治14年(1881)10月12日、国会開設の勅諭が発せられま した。これ以後、政府の内部では伊藤博文らが中心となり、立憲政治の実現に向けた準備が進められていきます。

国会開設の勅諭 附A00304115 1-2/2
展示資料は、「公文附属の図」に所収された国会開設の勅諭です。この勅論では、これまでの漸進主義を堅持しつつ、明治23年を期して国会をを開設することがうたわれています.また、憲法についても、天皇が自ら裁定し公布する旨が示されています。

板垣退助暗殺未遂事件 別00093100 25/142
明治15年(1882) 4月6日、自由党の総理(党首)であった板垣退助は、 遊説のため岐阜県金華山麓(現在の岐阜県岐阜市)を訪れていました が、演説の直後、刺客に襲撃され負傷しました。
 資料は、当時板垣の監視にあたっていた岐阜県御嵩警察署御岡本都喚吉が、同警察署長に提出した「探偵上申書」です。この
上申書によると、岡本が現場に駆け付けたところ、板垣が「吾死スルトモ自由ハ死セン」との発言をしたと記されています。
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伊藤博文らの欧州派遣 雑00763100 3-4/10
 展示資料は、明治15年(1882)、伊藤博文らに対して、立憲制度を調 査するための渡欧を命じた勅書案です。国会開設の勅諭に鑑みて、立憲政体を大成するため欧州各国で「其組織及ヒ実際ノ情景」に至るま で観察すべきことが命ぜられています。また、別紙では、憲法や内閣制度、議会制度といった具体的な調査項目も示されています。
 なお、随行者の中には、 のちに首相秘書官・内閣書記官長などを歴任して伊藤を支えた伊東巳代治や、伊藤が明治33年に結成した立憲政友会の後継者となった西園寺公望らがいました。

内閣制度の創始 勅00026100 1-2/3
 明治18年12月22日、それまでの太政官制度が廃止され、新たに内閣制度が創設されました。内閣総理大臣と各大臣(宮内大臣を除く)に より内閣が組織されることとなり、伊藤博文が初代内閣総理大臣に 任命されました。 展示資料は、内閣制度を創始するにあたって発せられた詔勅です。 ここでは、制度の導入によって施政の整理を図ったことなどが述べ られた後、文末ではこの制度は「永遠継クヘカラシム」(永遠に継ぐべ き)ものであると示されています。

大日本帝国憲法の公布
 明治22年(188の2月11日、大日本帝国憲法が公布されました。天皇が臣民に与える「欽定憲法」という体裁をとっていました。
 同憲法のもとでは、国の元首である天皇には統治権の総攬者として議会の召集・解散権や勅令制定権、陸海軍の統帥権などの大権が与えられた一方、立憲君主制の考えに基づき、その統治権は憲法によって一定の制限を受けることとされました。
 一方、法律の範囲内で、国民には居住・移転や信教の自由、言論・出版・集会・結社の自由、信書の秘密、私有財産の保護などが認められました。
 また、貴族院と衆議院からなる帝国議会が設けられ、法律案・予算案の協賛権(審議 ・承認する権利)が与えられました。 司法権も行政権から独立し、三権分立の体制が定められました。

大日本帝国憲法 『御署名原本』  御00284100 3/18
展示資料は、大日本帝国憲法の公布原本です。黒田内閣の各大臣 と、特別に勅語を賜り内閣に列した枢密院議長の伊藤博文が署名し ています。
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