国立公文書館 企画展「翔べ 日本の翼-航空発達史-」  (5)占領と戦後復興

戦後航空緊急施策要領案
 昭和20 年(1945)、終戦とともに日本は連合国軍の占領を 受けることとなりました。8月末から9月にかけて、GHQの指示により、航空機の飛行禁止、軍用航空施設のGHQへの引き渡しなどが決定されます。これを受けて、政府では9月6日、 戦後航空緊急施策要領案が作成されました。 展示資料は、同日の次官会議で検討された戦後航空緊急施策要領案です。この要領では、戦後の国民経済に必要な民間航空の存続のため、民間企業の存続を図り、飛行場等は国が維持し、技術者等は研究機関や教育機関で受け入れることが考えられました。しかし、同月22日にはGHQの指示が出され、民間を含む航空機が接収されました。そして、同 年11 月18日、GHQによる航空禁止の覚書(SCAPIN-301) が出され、航空機に関する研究、生産、運行等が全て禁止さ れることになりました。

戦後航空緊急施策要領案 平16内閣00001100(1-3/4)


大日本航空株式会社法の廃止
昭和20 年(1945) 10 月、GHQによる民間航空の禁止、航 空機の接収を受けて、大日本航空は10 月末で解散しました。11 月、GHQ の指示により、航空に関する活動が禁止され、大日本航空株式会社法は12 月27日付で廃止となりました。

大日本航空株式会社法の廃止 類02949100(1-2/24)


国内航空運送事業令
 GHQによろ航空禁止の後、日本政府は空港および航空保安設備の維持管理を行うこととなり、逓信院(後の逓信省)に航空保安部が設置されました。航空禁止の期間、日本ではGHQが認可した外国航空会社の乗り入れが行われました。
 昭和25年(1930)初頭、羽田空港では月平均170機の民間航空機が発着し、出入国旅客数は月平均で約2,000人にのぼりました。同年6月、GHQは覚書(SCAPIN-2106)を発し, 「昭和20年9月2日から昭和25年1月1日の間に許可され、且つ日本に乗り入れている外国航空会社によって指定され、または組織され、かつ出資される航空会社1社に限り」国内航空輸送事業の設立を許可することを伝えました。
 これを受け、同年11月1日に航空運送事業令か公布され、名目として残されていた航空法か廃止されました。展示資料は、航空運送事業令が閣議決定された際の文書です。

国内航空運送事業令 平14内閣00123100 (1,5/8)


国内航空運送事業令の一部を改正する政令
GHQの覚書を受け、昭和25年(1950) 10 月に外国航空会社7社が共同で設立した「日本国内航空会社(JDAC Japan Domestic Airline Company)」が申請を提出し、GHQ から会社設立が許可されました。 しかし、日本側では、日本政府に国際民間航空条約で認められた、他国が国内の運送を行うこと(カボタージュへの拒否権が認められていないことから、GHQに日本側の権利を 強く主張しました。アメリカ本国でも、講和、独立後の日本がカボタージュ拒否権を認められるのが当然と考えられており、 GHQと日本政府の交渉により、昭和26 年1 月にGHQから 新たな覚書(SCAPIN-2106-1)が出され、これを受けて日本政府は2 月に国内航空運送事業令の一部を改正、航空会社の営業部門を日本人が担当することが可能になりました。 展示資料は国内航空運送事業令が改正された際の文書 です。

国内航空運送事業令の一部を改正する政令 類03624100 (6、9-10/16)


民間航空運送事業の再開に関する件
国内の民間航空事業の再開に向けた動きが進む中、昭和 26 年(1951)3 月、民間航空運送事業の再開に関する件が閣議決定されます。展示資料は、運輸省が提出した閣議に関する文書です。民間航空の再開に際して、国内の路線、施設の利用等の方針が書かれています。 閣議決定と同じころ、戦前の大日本航空などの関係者が 中心となって準備を進めていた日本航空が、運輸大臣へ国内航空運送事業の免許申請を行い、5 月に免許が交付されました。日本航空はJDACに運行業務委託を行う予定でしたが、同社が内部対立で崩壊したため、ノースウエスト航空と運行委託契約を行い、同年10月にマーチン2-0-2A「もく星」号 が、第1号機として東京-大阪-福岡路線に就航しました。

民間航空運送事業の再開に関する件 平14内閣00144100


国際民間航空条約への加入承認の申請に関する件
 昭和27 年(1952)、日本は国際民間航空条約(シカゴ条約) に加盟を申請、翌年の総会で加盟が認められました。シカゴ条約は、昭和19 年、シカゴで行われた国際民間航空に関する国際会議で締結されました。同条約では、民間航空機を対象として領空主権などが確認され、航空機の法的地位などを定め、国際民間航空を秩序あるものとすることを目的としていました。
 昭和22年には、シカゴ条約に基づいて国際民間航空機関 (ICAO)が発足しました。ICAO は国際民間航空に関する原則、技術の発達の助長、国際航空運送の計画および発達の助長を目的としており、シカゴ条約加盟国自動的に加入することになっていました。日本は昭和28年にシカゴ条約に加盟し、同年に批准、同時にICAOにも加入しました。

国際民間航空条約への加入承認の申請に関する件 類03759100(2、49-50/52)


航空法の公布
昭和27年(1952)、前年に調印されたサンフランシスコ講和条約が発効しました。同条約では国際民間航空条約の規定、 附属書の標準、手続などを実施する規定が含まれたため、 国際民間航空条約に準拠した国内法の整備が必要となりま した。そこで、同年7月、航空法が公布されました。

航空法の公布 類03749100(1-2/234)


東京国際空港(羽田飛行場)の返還に関する件
昭和27 年(1952),, GHQに接収されていた羽田空港が返還されました。7 月には返還式典が行われ、日米共同使用で空港の運用が開始されます。展示資料は、返還に際して、在日米軍の使用領域を確認した文書です。

東京国際空港(羽田飛行場)の返還に関する件 平14内閣00247100(1-2/2)
羽田空港が返還され東京国際空港スタート 昭和27年7月2日撮影
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日航国内線再開前招待客を乗せるDC-3「金星」号 昭和26年8月29日撮影
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日本航空株式会社法
 昭和26年(1951)、日本航空はノースウエスト航空に運行業務を委託して営業を開始しました。翌年、サンフランシスコ講和条約の発効により、日本の民間航空に関する制限が撤廃され、民間航空会社による国内線、国際線の自主運行が可能になりました。日本航空は戦前の航空会社従業員なども含めて急速に規模を拡大し、ノースウエスト航空、トランスオー シャン航空など、外国の航空会社に委託して、運行、 整備に 関する専門技術者の養成を進めました。 同じ頃、政府では、国際線や国内主要幹線の運航を行うフラッグ・キャリアの設立のため、日本航空を再編、他社と合併して、新会社を設立することを決定しました。 昭和28 年、日本航空株式会社法が公布され、官民分担で出資する新たな日本航空株式会社が設立されました。同年、日本航空に国際線の営業免許が交付され、戦後初の国際路線として東京-沖縄-ホノルル-サンフランシスコ線が開設、翌年に営業を開始します。日本航空は日本を代表する航空会社として現在に至ります。

日本航空株式会社法 類03918100 (1-2,27/40)


日本航空株式会社設立目論見書
展示資料は日本航空株式会社設立時に証券取引所に提 出された目論見書と新株式発行目論見書です。 同社は昭和26 年(1951)に営業免許を取得した後、戦後の日本で初めての航空会社として同年8月1 日に正式に設立されました。創業開始時の従業員数は39 名、資本金は1億円でした。


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日本航空国際線パンフレット
 日本航空は昭和29年(1954)、国際線の営業を開始しました。就航当初は、ファーストクラスのみのサービス、客室シートは全席フルリクライニング式で客室乗務員による着物サービスがありました。当時の運賃は、サンフランシスコ=東京の往復が1,170ドル、片道運賃は650ドルで下。展示資料は、同路線の日本語と英語のパンフレットです。
 日本語版パンフレットには、日本航空の最初のシンボルマークとなった「鶴」が描かれています。
 日本航空では、創業当初から取り組んでいた日本の伝統美や文化、スピードなどをアピールするため、デザインに鶴が描かれたといわれています。表紙のデザインは、日本航空創業期から活躍したデザイナーの永井郁が描きました。


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航空機工業振興法の一部を改正する法律
 昭和33年(1958)、航空機工業振興法が公布されまLた。 翌34年、同法は輪送用航空機の国産化を促進することを目的に改正され、官民共同の特殊法人「日本航空機製造株式会社」が設立されます。戦後初の国産旅客機であるYS-11は、同社で生産されました。

航空機工業振興法の一部を改正する法律 平11総02901100(1/56)
戦後初の国産旅客機YS-11 守山市瀬古上空を初飛行する1号機 昭和37年(1962)8月30日撮影
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東條輝雄叙勲の件
 東條輝雄(1914- 2012)は、大正3年(1914)、東京に生まれました。父の東條英機)1884-1948)から技術者への道を勧められ、旧制福岡高等学校を経て東京帝国大学工学部航空学科へ進みました。卒業後は三菱重工業に入社、名古屋航空機製作所で零式艦上戦闘機の設計に加わりました。 戦後も三菱で技術者として勤務していましたが、請われて日本航空機製造へ出向し、設計部長としYS-11の開発を指揮しました。その後、三菱重工業副社長、三菱自動車社長に就任、同社の会長、 相談役などを歴任しました 。
 展示資料は、昭和61年(I 986)、東條が叙勲を受けた際の文書です。

東條輝雄叙勲の件 平8総01342100
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YS-11 の開発
 昭和31 年(1956)、通商産業省で中型輸送機国産化構想が作成され、翌年、東京大学内に財団法人輸送機設計研究協会が設置されます。昭和33 年には木村秀政、堀越二郎、嵐 土井武夫らを中,Uこ基礎設計が行われ、年末に実物大のモックアップが作成されました。昭和34 年には航空機工業振興 法の改正により、日本航空機製造株式会社が設置され、試作機の製造が開始されます。
 昭和37年に試作機が初飛行し、昭和39年には運輸省の型式証明を取得、量産機の納人が開始されました。同年には、全日本空輸にリースされた試作2号機が、東京オリンピッ クで使用される聖火の国内輸送を行っています。その後、昭 和48 年までの間に試作機を含めて182機が生産されました。YS-11は高い信頼性で知られ、現在でも一部の機体が運用 されています。 左の資料は、輸送機設計研究会が作成したYS-11製作に 関する説明書、右はYS-11販売のため、 英語で書かれた販促用の説明書です。
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東京オリンピック聖火輸送 昭和39年
国外の輸送を担当した聖火輸送機 日本航空DC-6B
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国内の輸送を担当した聖火輸送機 全日空YS-11
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