国立公文書館 企画展「ようこそ地獄 楽しい地獄」 Ⅴ.地獄から救われた人々 Ⅵ.六道輪廻-三悪道の世界

 Ⅴ.地獄から救われた人々
今昔物語集 林家 210-0108

『今昔物語集』には亀を助けた善行によって救われた男の逸話が載っていま す。
近江国の貧しい男は、妻から魚を買ってくるよう頼まれたにも関わらず、その金で綱にかかっていた亀を買って放してやりました。ある日、男は病で亡くなり、 閻魔庁へと連れて行かれます。 するとそこに地蔵菩薩が現れて、実は自分があの亀の正体であるこ とを語り、冥官たちに男の赦免を申し出ます。するとそこへ若い娘が獄卒に連れられてやってきたので、男はこの娘の身代わりになることを申 し出ます。その慈悲深さに地蔵菩薩も獄卒も感じ入り、特別に二人とも許されて現世に帰りました。そして、現世の筑紫国で、男と娘は再会し、助かったことを喜び合います。
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そのとき、一人の威厳ある小僧が出てきて言った。 「私は地蔵菩薩である。この男は私に恩を施した者だ。私はすべての生き物を救うため、 近江の国の入江で大きな亀に化身していた。漁師に捕えられて殺されそうになっていたところ、この男が慈悲の心を おこして、亀を買い取って命を助け、海に 放した。なので、すくにでもこの男を赦免 して解き放ってほしい」と。冥官はこれを 聞いて、男を許した。



宇治拾遺物語 万治2年刊 教部省 210-0119
『宇治拾遺物語』には、身代わりになって地獄へ堕ちた地蔵の話が収められています。横領を繰り返していた賀能という破戒僧が亡くなると、寺の人々は「地獄に堕ちたに違いない」と噂します。すろと、この賀能が日ごろ拝んでいた地臓像が焼 けているのが見つかります。ある人の夢に現れた地蔵菩薩は、地獄の底まで賀能 を助けに行ったのだと語りまLた。 地蔵菩薩は地獄の底へでも救済に訪れると考えられ,深く信仰されていたこと がわかります。
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また人のいふやう「賀能ぐして地獄へ入て、たすけてかへり給へるなり。 されは御あしのやけたまへるなり」といふ。御あしを見たまへは、 まことに御あしくろうやけ給ひけり。
またある人は(この地蔵は)「賀能と一緒に地獄へ入っていき、彼を助けてお帰りになったのだ。だから御足が焼けていらっしゃる」と言う。御足を見てみると、本当に黒く焼けていらっしゃった。



地獄から救ってくれたのは、お地蔵さんでした…
今昔物語集の方は、そもそもそんな慈悲深い人がなんで地獄に堕ちるんだという素朴な疑問があります。どんなにいい人でもとりあえず閻魔庁まではいくのでしょうか。一方、宇治拾遺物語の方は横領の常習犯ということで、貴様には地獄すら生ぬるい感じもしなくはないですが、お地蔵さんを大切にしているといいことがあるんですね。



Ⅵ.六道輪廻-三悪道の世界
源平盛衰記 延宝8年刊 昌平坂学問所 167-0043

【作者】未詳 【成立】未詳
軍記物語『平家物語』の異本のひとつで、『平家物語』を大幅増補改修した内容を持ち、特に源氏側の視点での加筆が目立つ。全48 巻の大部で、古今東西の多様な説話・伝説を収録している。展示資料は延宝8年(1680)に出版された絵入り本。昌平坂学問所の旧蔵。
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【挿絵】延暦寺を襲う鼠
 恋情や僧悪など、深い妄執にとりつかれた結果、畜生(動物や虫)に生まれ変わってしまうという話は古典籍の中に多く登場します。畜生は仏の教えに出会うことができないため、なかなか苦しみから逃れられないと考えられていました。
 『源平盛衰記』には、怨念のあまりに鼠に生まれ変わってしまった園城寺の頼豪(1002- 1084)という高僧の話が収められています。白河天皇(1053-1129、 在位:1073 -1087)の時代、皇子誕生を祈願した頼豪はその見返りとして園城寺に戒壇(戒律を授けて出家者を正式な僧尼と認める場所)創設を願い出ますが、延暦寺の反対によって果たせず、死後に鼠に生まれ変わり、延暦寺の経典を食い破ったといいます。

山門のぶつほうをほろぼさんとおもひて、大ねずみとなり、たふ〱坊〱に充満て聖教をぞかぶりくひける。これは頼豪がをんりやうなりとて、上下こ ゝかしこにてうちころしふみころしけれ共、いよ〱ねずみおほく出来て、をびた、しなんどはいふはかりなし。
(頼豪は)山門(※延暦寺のこと)の仏法を滅ぼそうと思って大鼠となり、塔や僧坊に満ちて経典を食い破った。皆これは頼豪の怨霊だといって、そこかしこで打ち殺し踏み殺したが、ますます鼠は多く出てきて、夥(おびただ)しいと いう言葉では言い尽くせないほどである。


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【挿絵】六道輪廻の苦しみを語る建礼門院と後白河院
 軍記物語『源平盛衰記』では、平家一門滅亡ののち生き残った建礼門院(平徳子、平清盛の娘で高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生む:1155-1214)は、 再会した後白河院(1127-1192、在位:1155- 1158)に対して生きながら六道輪廻を経験したと語ります。
 栄華を極めたものの平家一門は没落を始め(天人道の苦しみ)、一門の人々や我が子と別れ(人間道の苦しみ)、都を落ちて食糧もままならない船で嘆き叫び ながら逃れていき(餓鬼道・地獄道の苦しみ)、源氏との戦いが続く(修羅道・畜生道の苦しみ)という人生がそのまま六道輪廻に例えられています。


沙石集 天文11-12年写 和学講談所 特120-0008
【編者】無住(1227-1312)  【成立】弘安6 年(1283)
 僧の無住によって編まれた仏教説話集。序文に拠れば弘安2年(1279)の起筆で、弘安6年(1283)脱稿。仏教的な啓蒙書として編まれたが、世俗的な記事も多く同時代の様子を伝える。『徒然草』に影響を与え、また狂言・落語の出典にもなり、近世以降に多く流布 した。また無住は鎌倉に生まれ、生涯を東国に過ごしたため、地方の珍しい話題も多く収録する。
 展示資料は、天文11-12 年(1542-43)に書写された六巻と、 室町時代に書写された四巻を取り合わせた写本。和学講談所旧蔵。
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現世で罪を犯して餓鬼道に堕ちた者は、 餓鬼に生まれ変わって、飢えと渇きに苦しむと考えられました。『沙石集』には、にわかに息絶えてあの世に赴いた讃岐房という僧が、地蔵菩薩に助けられる話が収められています。地蔵菩薩の導きで現世へと戻る途上の野原で、讃岐房はある餓鬼と出会います。ここには餓鬼の罪や、その報いが描かれています。

野中ニ、餓鬼共イクラト云フ数モ不知数有ケリ。其形ヲヱニカケルニタカハス。其ノ中ニ成餓鬼申ケルハアノ讃岐殿ハ我子也。アレヲ養ナフトテ、多クノ罪ヲ作テ、此報ヲ受テ、飢渇ニセメラレテ衝ナク侍り、アレ給リテクイ候ハント申スニ、ヒカ事也。此ハ汝ガ子ニスコシモ違ヌ別ノ者也ト仰セラルゝニ慥ニ我子ニテ侍リ。所モ父モシカシカト明カニ申シケレ共ソゝロ事ニシテ、カレニゝタル別ノ者也。イサイサトテ、軈テ具テオハス。哀々ト、餓鬼申ケレ共、用ヒ給ハデ遙ニ行過テ、実ニハ彼ハ汝ガ母也。汝ヲ養シシ故ニカノ報ヲ得タリ。然共、汝ヲ食タリ共其苦ヲタスカル事モ久カルマシ。又汝人間ニ生テ、思出モ無シテ、命ヲ失ハン事モ不便ナレバ、我ソラ事ヲモテ汝ヲ助ツル也。穴賢〃〃。母ノ孝養、能々シメ、彼ノ苦患ヲモ助ケ、己ガ後生菩ノ為、勤行スヘシ。我ハイトマナキ身ナレバ行クゾ。是ヨリ道ハ覚エスラン」トテ、ウチステゝテイソカシケニテオハシツルト思テ活ヘリヌ。
 野中には数えきれないほどの餓鬼がいた。その姿は絵に描かれている様子と全く変わらない。その中のある餓鬼がこう言った。 「あの讃岐房は私の息子です。あの子を育てるために、多くの罪を犯し、このような報いを受けて飢えと渇きに苦しめられ、どう しようもできずにおります。あの子を私に食べさせてください」 と言うので、(地蔵菩薩は)「不当なことだ。この人はお前の息子とは全く違う赤の他人だ」とおつしゃったが、(餓鬼は)「確かに我が子です。住所も父親も知っています」と、はっきり答える。
 だが(地蔵菩薩は)「とりとめもないことだ。 よく似た他人だ。 さあ行こう」と、(讃岐房を)連れて行った。 「ああ、ああ」と餓鬼は嘆いたけれども、 (地蔵菩薩は)聞き届けなさらず、 遥かに通り過ぎてから(讃岐房に向かって)こう言った。
「実はあれは本当にお前の母親だ。お前を育てたせいであのよう な報いを受けている。だが、お前を食べたところで、その苦しみから抜け出せるのは少しのあいだだけだ。お前は人間に生まれ、喜びや満足もなく、命まで失ってしまってはかわいそうなので、私は嘘を申してお前を助けたのだ。よくよく慎むことだ。母親のことはしっかり供養して、苦しみから助け出し、 自分の後生のためにもしっかり勤めなさい。私は忙しい身なので帰るよ。ここから先の道はわかるだろう」と言って、讃岐房を置いて、忙しそうに行っておしまいになった。そう思ったところで、(讃岐房は)息を吹き返した。




恐ろしい地獄、残酷な地獄。
しかし戦乱や大きな災害を経験披した人々には、現実にある「この世の地獄」は、空想に過ぎない「あの世の地獄」以上に残酷でおそろしいと感じられたはずです。(それに善人にも無差別に襲い掛かる災害や戦乱より、悪人だけが苦しめられるあの世の地獄の方がずっとまし)。
 交通路が整備され、人間や物資の交流が盛んになった江戸時代。識字率が上がり出版も盛んにおこなわれ、全国各地の災害の情報が大量かつ速やかに伝わるようになります。となると、人々はますます「この世の地獄」をおそれ、そのぶん、鬼や閻魔が描かれた空想的な地獄のおそろしさに鈍感に。「ウソをつくと、閻魔様に下を抜かれるぞ」と言われてこわがるのも、幼い子どもたちだけでした。

難福図 明治23年 199-0449
 近江国(滋賀県大津市)の円満院の門主、 祐常は、「この世の地獄と極楽」を 写実的に描いた絵で人々を教化しようと、丸山応挙に『難福図巻』3軸の作画を 依頼しました。応挙は明和5 年(1768)にこれを完成。天災や処刑の場面「難」、それと対極的な家族円満・五穀豊穣など幸福な場面「福」が、あわせて収録されています。
 それにしてもなぜ「あの世の地獄と極楽」ではなく「この世の地獄と極楽」を描かせたのでしょうか。 図巻の冒頭にその理由が「世上地こく(地獄)天堂(極楽)の絵ありといへとも まのあたりミさることなれは…」と記されています。昔ながらの地獄図極楽図を見せても、誰も見たことがないので、今どきの人々は信じない。むしろ「この世の地獄と極楽」の写実画の方が、リアルで人々に与える衝撃が大きいというのです。
  展示資料の『難福図』は、原本を模して明治23 年(1890)に出版されたもの。原本は現在京都の承天閣美術館が所蔵しています。
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福岡県下水害之図  明治22年 166-0528
 地震、洪水のルボルタージュは、安政2年(1855)の江戸地震や翌年の大洪水のときも出版されましたが、明治になっても克明な図で被害の状況を伝える出版物が作成されています。
 明治22年(1889)7月、 西日本が水害に襲われ、福岡県では筑後川が氾濫し、多数の犠牲者が出ました。久留米市(同年4 月から市町村制の施行で市となる)の市会議長を務める三谷有信は、上京して政府に被害の惨状を報告。その際、画家でもあった三谷は(三谷家は久留米藩の御用絵師でした)、被害状況を描いた図集を作成して、宮内大臣ほか有力な政府関係者に示して救済を訴えました。
 展示資料は、「世の慈善家」に配るため日本橋葺屋町の東陽堂に数百部印刷させたもののーつ。
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御井郡小森村(現・福岡県久留米市のうち)の北村與平の家は、筑後川の堤防の下にあった。7月5日、大雨で堤防が決壊。激流で家族三人(夫婦と幼子)が家もろとも流された。 與平は櫨(ハゼ)の樹に必死にしがみつき、妻は幼子を細帯で背に縛り付け、浮きつ沈みつ、懸命に櫨の樹にたどり着こうとした。 もうすこしで…。
 しかし無残にも再び激流が襲い、妻と幼子は流されてしまった。與平だけが岸に流れ着いたという。【なんの罪もない母子の命が奪われるという、この世の地獄】




我を食う鬼
 「餓鬼」って文字をよく見たら「我を食う鬼って」…『沙石集』でも、実の母親が息子を食べさせてくれというわけだから、とんでもない異常事態です。餓鬼恐るべし。
 『源平盛衰記』では頼豪が怨念のあまりに鼠に生まれ変わってしまいましたが、鉄の牙を持つ8万4千匹もの鼠(鉄鼠・てっそ)滋賀県の園城寺(三井寺)には今も頼豪を祀る「ねずみの宮さん」があり、怨念の対象である比叡山延暦寺の方を向いています。。。
 一方、「この世の地獄」もまた怖い。理不尽な災害はまさに地獄です。ちなみに『難福図』も『福岡県下水害之図』も明治時代。今だったら「この世の地獄」は天災ではなく、人間かも…。
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