国立公文書館 企画展「ようこそ地獄 楽しい地獄」 Ⅳ.冥官と獄卒

Ⅳ.冥官と獄卒

十訓抄 享保6年 教部省 203-0098
【編者】未詳 【成立】建長4 年(1252)
十ケ条の徳目に説話を分類した説話集で、序文によれば年少者の啓 蒙のために編まれたという。平家一門に関連する逸話には、編者がそ の生活圏において直接見聞きした形跡のあるものが多く、編者の出自が類推される。展示資料は享保6 年(1721) に挿絵入りで出版され たもの。
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勘解由相公有国かげゆしようこうありくに(藤原有国:943-1011)という人が筑紫にいた頃、父が突然 倒れたので、泰山府君の法(陰陽道で延命長寿を祈る祭記で、死者を蘇らせる ことができるという伝説がある)を行って父を蘇生させました。すると父は、冥官た ちが有国に免じて自分を現世に帰すかどうか議論した結果、こうして帰らされたのだと語ります。『十訓抄』が描くあの世は、冥官たちの合議制によって成り立って いるようです。
有国、泰山府君の祭を法のごとく心を致して祈り奉りけるに、三時ばかり有て生かへりて云「我、閻魔王宮に召れたりつるに、美麗なる饗をそなへたるにより、返しつかはすべき由、定あるに、冥官一人、『輔道をばかへしつかはさるゝといへども、有国をばめさるべし。其故は其道の者にあらずして、其祭をつとむ。その科なきにあらず」と申に、又、座に着たる人、「有国とがあらず。その道の者なき遠国の境にて、孝養心にたえず、此祭をつとめたらん。さたに及ぶべからず」と申に、着座の人々「是に同」と申によて今、返されたる也」といひけり。

有国が泰山府君の祭を作法の通りに行い、心を尽くして祈念す ると、三時ばかりして(父の輔道は)生き返って、次のように 言った。「私は閻魔王の宮殿に連れて行かれたのだが、そこで冥官の一人が、有国が美麗な饗を供えた(※泰山府君の法の供え物のこと)ことに免じて帰してやるべきだと沙汰したが、ほかの冥官は『輔道を帰すのは構わないが、有国を召喚すべきだ。
彼はその道の者(※泰山府君の祭を行うにふさわしい陰陽道を極めた者)でもないのに、 泰山府君の祭を行った。 その罪がな いとはいえない』と言った。するとまた、そこに座していた者が「有国に罪はない。その道の者がいない遠国の境 (※有国が住んでいる筑紫のこと)で、親を想う心に堪えず、 この祭を行ったのだろう。沙汰には及ぶまい」 と言い、着座の人々が皆「その意見に賛同します」と言ったので、私は今こうして帰されたのだ」と言った。



古今著聞集 元禄3年 昌平坂学問所 210-0139
【編者】橘成季なりすえ (生没年未詳)   【成立】建長6 年(1254)
『古今和歌集』などの勅撰和歌集に書名・巻数・分類を倣って編まれ た説話集で、説話が項目ごとに年代順に配列されているのが特徴。貴族の日記を出典とする場合が多く、詩歌管絃 ・和歌など貴族社会の「芸」
の世界が描かれている。展示資料は元禄3 年(1690)に出版されたもので、昌平坂学問所の旧蔵。
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『古今著聞集』にはあの世からの使者の様子が描かれています。摂津国清澄寺の慈心坊尊恵という高僧がある日法華経を読んでいると、白張(平安時代の下級官人の装束)に立鳥帽子を身に着けたあの世からの使者が現れ、閻魔王宮での法華経転読の法会に参勤してほしいというのです。これを承知すると、 数日後に尊恵は息絶え、閣魔王の下で十万人の僧と十万部の経を転読し、まもなく閻浮提えんぶだい(この世)に帰されたのでした。

承安弐年七月十六日 、脇足によりて法花経をよみ奉ける程に、夢ともなくうつゝ ともなくて、白張に立烏帽子きたる男のわら沓はきたるが、 竪文を持て来れり 。尊恵、あれはいづくよりの人ぞと伺ければ、ゑんま王宮よりの御つかひ也。うけぶみ候とて立文を尊恵にとらせければ披見に、
 崛請
 閻浮提大日本国摂津国清澄寺
 尊恵慈心坊
右来十八日於焔魔庁以十万人之持経者可被転読十万部法花経宣被参勤者依閻王宣崛請如件
とかゝれけり。

承安二年(一一七二)七月十六日、(尊恵は)脇息に寄りかかって法華経を読んでいると、夢か現か定かではない中に、白張(※平安時代の下級官人の装束)に立烏帽子を身に着け、藁沓(※藁で 編んだ草履)を履いた男が、立文(※正式な書状)を持ってやってきた。尊恵が「これはどちらからいらした方ですか」と尋ねると、「閻魔王の宮殿からの使いです。書状を預かっております」と言 って、立文を尊恵に手渡したので、見てみると、
 崛請(※僧侶への招待のこと)
 閻浮提(※この世)大日本国摂津国清澄寺
 尊恵慈心坊
 右の者は、来たる十八日、閻魔庁で催される、十万人の僧による法華経十万部転読の法会に参勤するょう、閻魔王の命令によって要請するもので ある

と書かれていた。




江談抄 林家 211-0160
【編者】藤原実兼(1085-1112)  【成立】 長治・嘉承年間(1104-1108)から 天永2 年(1111)の間か
後三条・白河・堀河天皇の三代に渡り、 その侍講を務めた大江匡房(1041-1111) の最晩年の談話を収めた説話集。藤原実兼が聞き手となり筆録したものが中心となつている。有職故実 など朝廷のしきたりを伝えるものが主だが、当時、貴族たちに伝わっ ていた様々な説話が多く記録された。後世の説話集に大きな影響を与える。展示資料は幕府に仕えた林家の旧蔵書。写年不明。
リンク先の No.3 22ページ
『江談抄』には、平安時代初期、嵯峨天皇(786-842、在位:809~823)に仕えた公卿である小野篁(802-853)が、同時に閻魔王に仕える冥官であった逸話が収められています。また『江談抄』には、これらの説話の語り手である大江匡房が、小野篁と似た星回りだったため冥官であると勘違いされて閻魔王への陳情を頼まれたという逸話も載っています。

篁、結政に参る剋限に、陽明門の前に於いて、高藤卿の為に車の簾・鞦等を切らると云々。時に篁は左中弁なり。即ち篁、高藤の父の冬嗣の亭に参りて、子細を申さしむる間、高藤俄かに以て頓滅すと云々。篁、即ち高藤の手を以て引き発す。仍りて蘇生す。高藤、庭に降りて篁を拝して云わく、『覚えずして俄かに閻魔庁に到る。此の弁、第二の冥官に坐せらると云々。仍りて拝するなり』」と云々。

(大江匡房が語るところによると、)「篁は結政(※井官の政務のひとつ)に参上する時、陽明門の前で高藤卿(藤原高藤・838-900)に牛車の簾や鞦しりがい(※牛車の牛の尻にかけて車を固定する紐)を切られるという嫌がらせをされたらしい。 当時、篁は左中弁(※弁官、各省を監察する役職)だった。すぐに篁は、高藤の父の冬嗣(藤原冬嗣、史実では高藤の祖父・・ 775-826)の屋敷に参上し、事の仔細を申し上げていると、高藤が急死してしまった。纂がすぐに高藤の手を取って引 き起こすと、高藤は息を吹き返した。高藤は庭に下りると、篁を拝んで次のように言った。『思いがけず私は閻魔庁に行ってきました。するとこの篁が第二の冥官としてその座にいたのです。 なのでこうして拝んでいるのです』」(とのことである。)



今昔物語集 林羅山 210-0108
リンク先 No.18(全28件中) の145ページを展示
『今昔物語集』には、小野篁が冥官として閻魔王に仕えていた際、急死して あの世へとやってきた藤原良相(813-867)を助けたという伝説か載せられています。かつて篁が朝廷から処罰された際、良相が弁護してくれたことがあり、篁はその恩返しとして閻魔王に対して良相を弁護したのでした。赦免されて現世へ帰ってきた良相は、朝廷で宰相として仕える篁に再会し、閻魔王宮でのことを尋ねますが、篁は笑って「このことを他の人には話してはいけない」と言うのでした。

ある時、大臣(※藤原良相のこと)は重い病にかかり、数日のうちにお亡くなりになった。すぐに 閻魔王の使者に捕縛されて、閻魔王宮に連れて行かれ罪を定められることになったが、 間魔王宮の並み居る家臣たちの中に、小野篁がいた。大臣はこれを見て「これはいったいどういうことだろう」と怪しんでいると、 篁は杓を取って、閻魔王に向かってこのように申し上げた。 「この大臣は実直な人物で善良な方です。この度の罪は、この私に免じてお許しください」と。閻魔王はこれを聞いて、「それはとても難しいことだが、今回はその申請に免じて許してつかわそう」とおっしゃった。すると、篁は獄卒たちに「すぐに連れて帰るように」と命令した ので、「連れて行かれる」と思った時には、大臣は息を吹き返していた。



古今和歌集一首撰 嘉永6年 昌平坂学問所 201-0426
リンク先の62ページを展示

古事談 紅葉山文庫 特070-0003
【編者】源顕兼(1160-1215)  【成立】建暦2 年(1212)~建保3 年(1215)か
鎌倉時代はじめまでに伝来していた説話を網羅的に収集した説話集で、出典も多岐にわたるため配列や文体も雑然としている。貴人を 顕彰するよりもその人間性を強調して描こうとするため、時に醜聞暴露のきらいがあるとも評される。編者の源顕兼は九条家に近侍し た公卿。
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地獄行きが決まった亡者には、地獄からの使者が容赦なく迎えにやってきます。
それは源義家(1039- 1106)のような様々な武功を挙げた人物でも例外ではありません。 『古事談』には鬼の姿をした恐ろしい獄卒たちの様子が記されています。

義家朝臣は、依無懺悔之心、遂堕悪趣畢。病悩之時、家の向なりける女房の夢に、地獄絵に書たるやうなる鬼形之輩、其の数、乱入彼家、
捕家主、大札を先に持て、将出けり。札銘には 「無間地獄罪人源義家」と書たり。後朝に「かゝる 夢をこそ見つれ」とて、令案内之処、守殿、此暁 逝去云々。

義家朝臣は懺悔の心がなかったために、とうとう地獄に堕ちてしまった。病気で苦しんでいるとき、向かいの家の女房の夢に、地獄絵に描かれているような鬼の姿をした者たちが、義家の家に乱入し、家主(※義家のこと)を捕らえ、 大札を先頭に掲げて連れ出した。札には「無間地獄の罪人源義家」と書いてあった。翌朝、(女房が義家の家に)「このような夢を見ました」と 知らせに行ったところ、義家はその日の明け方 に亡くなっていたそうだ。




平家物語 明暦2年 教部省 203-0153
【作者】未詳 【成立】鎌倉時代か
平家一門の栄華と滅亡を描いた軍記物語。保元・平治の乱のあと平家一門は栄華を極めるが、源氏の挙兵によつて没落をはしめ、ついに壇ノ浦の戦いで滅ひる。盲目の琵琶法師の語りによつて流布したと考 えられているが、作者・成立ともに所説あり、未た定脱を見ない。
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『平家物語』によれば、源氏挙兵と時を同じくして平清盛(1118-1181)は熱病に倒れます。すると二位尼(平時子、 清盛の妻:1126-1185)の夢には清盛を迎えにやってくる恐ろしげな獄卒たちが現れました。まもなく清盛は亡くなりますが、『平家物語』はこれを清盛が東大寺を焼き討ちし、大仏殿を焼亡させた報いだと述べています。

入道相国の北の方、八条の二位尼の夢に見給ひける事こそおそろしけれ。たとへば、みやう大のおびたたしうもえたるに、車の主もなきを 門の内へやり入たるをみれば、車の前後に立たる者はあるはうしのおもてのやうなる者も有。 あるは馬のやうなるものも有。車の前には「無」といふ文字ばかりあらはれたる。くろかねの札をそ打たりける。 二位殿、夢の内に「是はいづくよりいづちへ」ととひ給へば、 「平家太政の入道殿の悪行、てうく はし給へるによつて、ゑんまわう宮よりの御むかひの御車也」と申候。「さて、あの札はいかに」 と問給へば、「南えんふたいこんとう十六丈のるしやな仏、やきほろぼし給へるつみによつて、無間のそこにしづめ給ふへきよし、ゑんまのちやうにて、御さた有しが、むけんの無をはかゝれたれども、いまだ間の字をばかゝれぬ也」とぞ申しける。
入道相国(※平清盛)の北の方 、八条のニ位尼(※平時子) が夢で御覧になったことはあまりにも怖ろしいものだった。猛火が凄まじく燃え上がり、誰も乗っていない車が門の中へと入 っていくのを見た。車の前後に立っている者は、ある者は牛の顔のような者もおり、またある者は馬のような顔をしている者もいる。車の前には、「無」という文字だけを書いた鉄の札が打ち付けられている。二位殿は夢の中で「この車はどこから来てどこへ向かうのですか」とお尋ねになった。すると「(この車は)平家太政の入道殿(※清盛)の悪行が積み重なったので、閻魔王宮からお迎えに参る車です」と言う。(二位尼が)「では、あの札は何ですか」とお尋ねになると、「(清盛は)南閻浮提 (※この世)の金銅十六丈の盧舎那仏(※奈良の大仏)を焼き亡ぼしたため、無限地獄の底に沈めるべしと、閻魔庁にて御裁定が下りましたので、『無間』の無の字を書いたのですが、まだ間の字を書いていないのです」と言う。



未来記(舞の本) 明暦2年 204-0018(21)
【作者】未詳 【成立】未詳
 『舞の本』は戦国時代に流行した芸能てある幸若舞の詞章を、読み物用に編集したもので、寛永年間(1624-1644)に出版されて広く 流布した。そのうち『未来記』は、鞍馬山で天狗と出会った牛若丸 (源義経:1159-1189)か、源氏挙兵から平家減亡までの未来を予言されるという内容。展示資料は明暦2年(1656)に出版された絵入り本。
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牛若丸(源義経:1159- 1189)と出会った鞍馬山の天狗は、 牛若丸の前でこれから起こる未来の出来事を実際に演じてみせます。 当時、栄華の頂点にあった平清盛の死を予言した天狗は、 清盛が南都焼討ちを命じて大仏殿を焼亡させたその報いに熱病に苦しむ姿を演じて見せました。 【挿絵】熱病にうなされる清盛を演じる天狗。背後では東大寺が炎上している。

ゆゝしけなるてんくか「本三みの中将しげひら」と名乗て、三千余騎をそつし、なんとへをしよせて 大仏殿をやきはらふ。 春日の御とかめ、ふかくして、すてにはや、きよもりは、ひの病をうけ取て、せいねつ地ごくのかなやのほむら、是にはいかてまさるへき。「あらあつや、かなしや」とこかれ死にしんたりと、かやうにきよもりのはや一期をかたつて、さつといる。
いかにも立派な天狗が「本三位中将重衡」(※平重衡、清盛の五男で南都焼討ちを実行した・・1157-1185)と名乗って、三千余騎を率いて南都へ押し寄せ、大仏殿を焼き払う。 春日大明神の御替めは深く、とうとう清盛は熱病にかかった。焦熱地獄の金屋(※熱鉄の釜で焼かれて責め苦を受ける地獄。金屋は鉱石を溶かす精錬所のこと)の炎もこの苦しみには勝るまい。(清盛は)「ああ熱い、悲しい」と悶え焦がれて死んでいった、と、このように天狗は清盛の最期を語り、さっと去って行った。



閻魔「帳」じゃなくて閻魔「庁」だったのね
つまり閻魔庁は死者が生前の悪行について裁かれる裁判所みたいなところみたいですね。なるほど。でも、そうすると、一つの疑問が。
閻魔大王が死者の生前の行為や罪悪を書きつけておくという帳簿、転じて教師が受け持ちの生徒の成績や出欠などを記入しておく手帳を閻魔「帳」と言いますが、これは誰かが閻魔庁という言葉を文字で読まず耳で聞いただけだったので勘違いしてできたものではないでしょうか。今回の展示で閻魔「庁」はよく登場するのですが、閻魔「帳」はなかったですしおすし。
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