国立公文書館 企画展「昭和20年-戦後70年の原点-」 プロローグ~3月

国立公文書館で平成27年度第2回企画展「昭和20年-戦後70年の原点-」をやっていました。昭和20年の様々な出来事を月ごとに紹介し、戦後70年の原点となった1年間が示されていきました。

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プロローグ -開戦から昭和19年まで-
 昭和16年(1941)12月8日、日本はアメリカ、イギリスとの戦争を開始しました。開戦当初は日本側が優勢でしたが、昭和18年に入ると戦局が悪化します。昭和19年になると、パラオのペリリュー島やマリアナ諸島が占領されます。また、神風特別攻撃隊の出撃など、熾烈な戦いが繰り広げられました、戦局の悪化とともに、戦場が日本本土に近づいてきました。

1、米国および英国に対する宣戦の布告(「宣戦の詔書」) 御24374100
 昭和16年12月8日、日本はアメリカ、イギリスに対し宣戦を布告(戦争状態に入ることを通知すること)しました。展示資料は宣戦に関する詔書の公布原本です。
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2、直視せよ!レイテ攻防 ヨ310-0116(写真週報 348号 2-3ページ)
昭和19年11月22日発行の『写真週報』第348号掲載の記事「直視せよ!レイテ攻防」です。フィリピンをめぐる戦いはレイテ決戦として大きく取り上げられました。『写真週報』は、昭和13年(1938)から内閣直轄の情報局が発行していたグラフ誌です。

戦艦武蔵の撃沈
 昭和19年(1944)10月24日、レイテ沖海戦で戦艦武蔵が撃沈されました。写真は、米軍が撮影したレイテ沖海戦で攻撃を受ける戦艦武蔵です。 Battle of the Sibuyan Sea, 24 October 1944(NH63432 アメリカ海軍歴史センター所蔵)


昭和20年1月 -日本本土空襲と空襲下の生活-
 日本軍の後退により、米軍による日本本土への空襲が始まりました。昭和19年(1944)には、マリアナ諸島を飛び立った米軍機B-29による、日本の各都市への空襲が始まります。昭和20年1月に入ると、政府は「空襲対策緊急強化要綱」などを定め、対策を強化していきます。

3、緊急施策措置要綱 類02890100
 1月には小磯国昭内閣と軍の間で協議が行われ、本土決戦(米軍の日本本土上陸)に対する準備が始まりました。政府は緊急施策措置要綱を定め、軍との協力の強化や工場の分散、地下への疎開、国民皆勤員というスローガンによる勤労動員の強化などを行うこととしました。展示資料は緊急施策措置要綱交付時の閣議書です。

4、空襲対策緊急強化要綱 類02937100
 米軍の本土空襲に対して、小磯内閣は1月19日に空襲対策緊急強化要綱を定め、空襲に備えた疎開、防空活動のため、都市に残る人々の確保、被害者の保護などを行うこととしました。展示資料は空襲対策緊急強化要綱交付時の閣議書です。

5、藷類増産対策要綱 類02942100
 戦争が激しくなると、食料や燃料の不足が深刻になりました。政府は藷類増産対策要綱を定め、収穫量の増加に加え、干し芋を作るための設備も大量に準備しました。また、燃料用として、焼酎と同じ方法でアルコールを作ることを計画しています。収穫量を増やすために、軍用地等の利用が考えられ、様々な場所が畑に姿を変えました。展示資料は藷類増産対策要綱を交付する際の閣議書です。
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2月 -硫黄島の戦い-
 日本本土で空襲への対応が進められる一方で、2月には硫黄島に米軍が上陸しました。硫黄島は、マリアナ諸島から日本本土へ向かう米軍爆撃機の進路上にあり、米軍が日本本土への爆撃を行う中継地になると考えられていました。硫黄島では、島を守る日本軍と米軍の間で激しい戦いが行われました。

6、陸軍中将栗林忠道を陸軍大将に任ず 別00229100
 硫黄島では、2月19日から3月26日にかけて島を守る日本軍と、上陸した米軍との間に激しい戦闘が行われました。日本軍の指揮を執ったのが陸軍中将の栗林忠道でした、展示資料は栗林忠道が線死語、硫黄島での戦いでの功績により、陸軍大将へ昇進したときの裁可書です。

戦地からのはがき
 硫黄島のような太平洋の島に駐留した日本軍の兵士たちは、日本本土に暮らす家族に軍事郵便で生活の様子などを伝えていました。展示資料は、マリアナ諸島にいた陸軍の兵士が家族に送ったはがきです。このはがきが書かれた数か月後、米軍がマリアナ諸島に上陸し、この兵士が所属する部隊は壊滅します。この部隊で終戦を迎えた生存者はごくわずかでした。軍事郵便は、立場によって送ることができる郵便の量が違いますが、戦地にいる人々にとって、家族や友人との大切な連絡手段でした。
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俺れも以来益々元気だが、皆んな如何。焼き付く様な太陽、内地の真夏を思わせる。今後益々暑さ増すばかり。日と共に土人に近づく様な感しがする。体の皮は一回はげた。毎日裸体。夜は椰子の木蔭に蚊屋をつり眠る。孔雀の尾の様な大きな葉のすきまより、星が美しく光って居る。バナナ、パイナップル、其の外まだまだ多産ある。珍らしきものばかり。忠司、歌、悦、皆んなに一寸でもよい、食べてもらいたい様に思われる。俺ればかり食べて済まん、許してくれ。松子その後如何。では皆、体を大切に。


血闘続く硫黄島
 硫黄島の戦いはラジオや雑誌などを通じて国民に伝えられました。展示資料は『写真週報』の3月14日号です。硫黄島の日本軍の戦いぶりを勇ましく報道しういますが、戦場は既に日本本土の間近まで近づいていました。記事には「本土戦場化」、「常在空襲生活」といった言葉が並び、空襲にさらされる本土の様子がわかります。記事左上の写真は、硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道です。
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3月 -東京大空襲と空襲への対応-
 硫黄島での戦闘が続く3月、日本本土への空襲は激しさを増していきました。3月10日未明の「東京大空襲」では325機のB-29が空襲を行い、38万発に上る爆弾や焼夷弾が投下されました。この空襲による被害は、死者10万人、罹災者100万人以上に及びました。
 激しさを増す空襲に対して、政府は児童をはじめ、都市に住む人々の疎開、住民による防空活動の強化などを中心に対応を始めました。

7、3月10日の空襲に関する功績調書(3月10日) 平9警察00772100
 都市の空襲では、多くの住民が戦火にさらされました、展示資料は、空襲当日の内務省警保局の女性職員の働きぶりを詳しく記録した調書です。「東京大空襲」の下で業務を続け、消火活動にも参加した3名の女性職員に、内務省警保局超から局長特賞として賞与が与えられました。
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東京の空襲被害 昭46総00176100
 昭和20年(19425)12月に第一復員省資料課によって都市ごとに編さんされた「全国主要都市戦災概況図」からは、各地の空襲被害の状況を知ることができます。試料は東京の図です。3月10日の東京大空襲をはじめ、空襲を受けた地域が赤色で示されています。

8、東京大空襲と行幸(3月18日) 纂03087100
 3月18日には昭和天皇が富岡八幡宮周辺の罹災地へ行幸されました。行幸の様子は新聞でも報道されました。展示資料は、前日に宮内省が内閣に提出した行幸の予定表です。富岡八幡宮から神田淡路町にいたり、大手門から宮城に至る「御道筋」が記されています。参考『朝日新聞』昭和20年3月18日
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9、学童疎開強化要綱(3月9日) 類02941100
 3月9日、小磯内閣は昭和19年から行われていた学童疎開を徹底して行うため、学童疎開強化要綱を定めました。この要綱に従って、国民学校初等科の児童を中心に縁故疎開や集団疎開が行われました。展示資料は、学童疎開強化要綱が閣議決定されたときの閣議書です。
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10、大都市に於ける疎開強化要綱(3月15日) 類02950100
 都市への空襲は激しさを増していました。3月15日、小磯内閣は「大都市ニ於ケル疎開強化要綱」を定めました。大都市では最低限の住民を残して、農村への疎開を行いました。展示資料は疎開強化要綱が閣議決定されたときの閣議書です。

11、国民義勇隊の編成(3月23日) 類02937100
 3月23日、空襲による火災の消火活動や土木呼応時に従事する国民義勇隊の編成が定められました。国民義勇隊は15歳から60歳の男性、17歳から40歳の女性が対象とされました。展示資料は国民義勇隊の編成が閣議決定されたときの閣議書です。
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