国立公文書館 企画展「不思議な不思議な百人一首」  (後編)

Ⅲ 広がる百人一首
異種百人一首とは
後世に編まれた百人一首の総称。藤原定家の選んだ百人一首と区別して「異種百人一首」とよばれ、和歌や家人が新たに選び直されている。

武家百人一首 201-0409
『武家百人一首』は武将100人の和歌を集めた「異種百人一首」のひとつ。本書の跋文によると和歌の良し悪しは関係なく、武将として著名な人物を集めたといいます。また和歌の多くが著名な作者に仮託されたもので、実際の作者についてははっきりしません。

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伊予守源義経いせ嶋や塩くむ 袖の 月かけを 波に残して かへるあま人


名所和歌百人一首 201-0414
 著名な歌枕(和歌の題材となる名所)を詠んだ和歌100首を選び編まれた異種百人一首。歌人は後嵯峨院(石清水)から小野小町(井手)までの100人で、畿内の歌枕を京から始まり京へ戻ってくるように配列している。
 『名所和歌百人一首』を見ると、枠外の上部に「山城嵐山」「大和立田山」など歌枕の地名を出し、和歌本文と共に歌人の肖像を載せているのがわかります。後醍醐天皇など後世の歌人も新たに選ばれているのも「異種百人一首」の特徴のひとつです。

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後醍醐院  立田山 みねの にし きも 中絶ぬ 松をのこ して 流る紅葉 に


英雄百首 国立国会図書館
 川柳作者の緑亭川柳(別号は腥斎佃なまぐさいたづくり)によって編まれた異種百人一首で、素戔嗚尊から足利義尚まで、日本の神話・文学・歴史の中から英雄とされる人物100人の和歌を選ぶ。当初には人物の伝記を載せる。絵師は歌川貞秀。


近世百人一首(視聴草)  217-0034
 後水尾院から後西院まで戦国時代末期~江戸時代初期の著名な歌人の和歌を集めた歌集で、異種百人一首のひとつ。

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 『視聴草』に収録された『近世百人一首』の奥書には、幕臣で国学者でもあった大草公弼が自ら写本を借りて書写したことが記されています。のち宮崎成身がこれを手に入れて『視聴草』に綴じ込みました。当時、様々な「異種百人一首」が作られて出版されたほかにも、個人間の書写によって流布したものも少なくなかったと考えられます。
【奥書】この近世百人一首はだれが撰集したものかわからない。好事家が集めてある家に所蔵されていたものを、拙いながらも書写したものである。
 享和に改元された年の中秋(享和元年八月) 藤公克(大草公弼)

        烏丸大納言光広
明る間は小鹿の角のつかの間もなつ野ゝ露にやとる 月かけ


新撰百人一首 201-0579
 歌人の網野延平によって編まれた異種百人一首で、後醍醐天皇から光格天皇までの100人の名歌を選んだもの。南北朝時代から江戸時代後期までの歌人を中心とする。正方形の枠は色紙を意識したもので、和歌を散らし書きにするなどの意匠が施されています。

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中納言光國 いざけふは花にあるじをゆづり置て我もまとゐの数に入りなむ


百人一詩 207-0026(3/30)
 漢から宋の時代までの中国の優れた監視を集めたもので、百人一首の体裁に倣っている。明暦元年に林羅山が編纂に着手し、寛永9年に鷲峰の手によって改稿して完成した。それまで朝廷を中心とする貴族社会に大きな影響を与えていた百人一首だが、漢学者にも影響を与えていたことがうかがえる。


真字百人一首 201-0384(10/31)
 万葉仮名を用いて表記した百人一首。『万葉集』研究が進展し、万葉仮名の表記方法に関心が集まった影響を受けて出版された。

千代田の大奥 かるた 国立国会図書館
 江戸城大奥の人々の姿を描いた大判三枚絵シリーズのうち「かるた」。 大奥の生活は長く秘匿されてきたが、明治に入ってから当時の奥女中たちの証言を基に様々な錦絵が制作された。絵師の楊州周延は歌川国芳、三代目歌川豊国、歌川国周らに学んだ浮世絵師。
 江戸城多くの奥女中たちが歌がるたに興じている様子が描かれています。奥女中といえば当時は数少ない女性のキャリア階級で、庶民にとってはあこがれの対象。歌がるたはそんな彼女たちに親しまれたものでした。


松の葉 199-0236(10/46)
 百人一首が影響を与えたのは学問の世界ばかりではなく、当時流行した三味線歌謡の中にも百人一首を題材にしたものが見られる。三味線は室町時代に琉球を経由して中国から伝来して以降人気となり、江戸時代に入ると方角の中心的な楽器になった。
 『松の葉』は江戸時代前期の上方で流行した三味線歌謡を集成したもので、後世の歌本にも大きな影響を与えた。
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つほのいしぶみ 190-0270
 「賢女貞女の判」「貞女烈女の判」などの文章を収めた女性向けの教養書。礼儀作法や道徳の他にも上流階級の女性の遊びなどを紹介している。
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女性向けの教訓書『つほのいしぶみ』では教養ある遊びとして「歌貝」が紹介されています。「歌貝」は将棋の駒の形をした札を用いたカードゲームで、しばしば百人一首が用いられていました。中央に伏せておいた上の句の札を順にめくっていき周囲に並べた下の句の札と一致したものを取って、数多く札を取ったものが 勝ち。
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 当時百人一首にかぎりたる事とす。源氏古今伊勢物かたり、何にてもなぐさみながら歌覚へんか為なり。
現在では百人一首に限って遊ばれている。『源氏物語』『古今和歌集』『伊勢物語』などを用いたものもあるが、いずれにしても遊びながら和歌を 覚えるためのものである。


倭詞接木花 国立国会図書館(6-7/37)
『倭詞接木花』は和歌の練習方法として、百人一首の和歌から取り出した語句を組み合わせ、新しい和歌を詠む遊びを紹介しています。江戸時代に入ってなお、和歌は上流階級には欠かせない教養のひとつで、中でも百人一首は初心者向けの教材として用いられました。

右のごとく、四枚にても五枚にても、又七八枚もならべ置て、扨サテ、此内の五文字七文字を拾ひて五句にすべし
今一首となるその歌
 玉の緒よみだれて今朝は白露に風の吹しくいなのさゝ原
又一首
 玉の緒よたえなはたえね風吹はいなのさゝ原物をこそおもへ
かくのごとく思ひ思ひに書しるして後その一座の巧者なる ものに見せて批判を受べきなり。始の歌は心ばへよく聞ゆればよろし。次の歌は無心所着とて心のより所なし。よろしからず。
右のように(かるたを)四牧でも五牧でも、また七八枚ほど並ぺておいて、この内の五文字七文字を拾って一首にしましょう。
 例えば一首作ってみると、
  玉の緒よみだれて今朝は白露に風の吹しくいなのさゝ原
またもう一首作ってみると、
  玉の緒よたえなはたえね風吹はいなのさゝ原物をこそおもへ
このように思い思いに書き記して、同席している人の中で一番巧みな人に見せ、批評してもらいまし よう。例えぱ最初の歌は趣が良く聞こえるので良い出来です。次の歌は、全体の意味が通っておらず、表現の意図がはっきりしません。よろしくない出来です。



古今和歌集一首撰 201-0426(2-3,64/72)
 和歌を学ぶ童女向けに編集された箇所のひとつで、『古今和歌集』から記名歌人の歌を130首抄出して掲載したもの。
 序文によれば、当時の子供たちは8歳くらいから和歌を学び始め、その際、最初に習得するのが百人一首だった。『古今和歌集』はその次の段階にステップアップした教材で、そのために作られたのが『古今和歌集一首撰』である。

今の世の女の わらはに、文よみならはするはじめには おふな  うたの道をも学ばせんとにや。 百人一首をよみをしゆることゝはなりにけり。
今の時代の女の子に文章を読み習わせる最初には、まずは分相応に和歌を学ばせようとし てか、百人一首を教えることになっている。


女大学 国立国会図書館
 江戸時代を通して広く流布した女性向けの教訓書。貝原益軒の『和俗童子訓』を基に享保年間に出版されて以降、内容や体裁を変えながらも様々なものが出版された。
 『女大学』巻末の付録部分には冗談には百人一首、中段に二十四孝(中国の有名な孝子24人の故事)、下段には出産・育児のための実用書が載っています。百人一首が当時の女性たちの身につけるべき基本的な教養のひとつと考えられていたことがうかがえます。


新板栄寿百人一首双六 国立国会図書館
 百人一首を素材にした双六で、100首が順に並んだマスで遊ぶもの。上がりには小倉山荘で百人一首を遊ぶ藤原定家の図が描かれている。絵を手掛けた歌川(錦朝楼)芳虎は歌川国芳の門下で、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師。
 一枚刷りの双六は安価なおもちゃとして庶民に親しまれました。ここでも百人一首が題材に採られていることから、幕末には百人一首が庶民に広く浸透していたことがうかがえます。


百人一首抄 特027-0006(5/39)
 武将であり歌人でもあった細川幽斎の手による百人一首の注釈書で、通称を「幽斎抄」。江戸時代を通して広く流布し、近世の百人一首研究に大きな影響を与えた。詳細な作者解説に特徴がある。


百人一首御講尺聞書 201-0388(5/85)
 寛文元年5月6日から24日までの間に6回にわたって催された、後水尾院による百人一首の講義を、聴衆が聞書としてまとめたもの。


百人一首改観抄 201-0576(5/80)
 真言宗の僧であり、古典学者であった契沖の手による百人一首の注釈書。賀茂真淵や本居宣長など後世の国学者たちに大きな影響を与えた。


百人一首拾穂抄集注 201-0389(11/70)
 歌人・俳人で古典学者でもある北村季吟の手による百人一首の百人一首の注釈書。一般的な書名は『百人一首拾穂抄』。細川幽斎・松永貞徳らの先行する説をまとめたうえで自説を示す。簡潔で分かりやすく、江戸時代に成立した百人一首の注釈書の中では最も広く流布した。



Ⅳ 百人一首の謎

明月記 特105-0002
 藤原定家が19歳だった治承4年から50年以上にわたって書いた日記で、当時の社会情勢から日常生活まで詳細な記録を残す。冷泉家時雨亭文庫には自筆本が伝わっており、国宝に指定されている。
 藤原定家が74歳になった文暦2年(1235) 5月27日の日記には、「彼入道」からの依頼で「嵯峨中院」を飾るための和歌色紙を書写したことが記録されています。「彼入道」とは鎌倉幕府の御家人で、和歌を通じて定家と親しかった宇都宮頼綱(出家して蓮生と称す、1172-1259)のことで、「嵯峨中院」は京都嵯峨にあった彼の別荘のこと。この記録が百人一首成立の謎に関わっていると考えられています。
二十七日 朝晴れ(中略)
私はもともと文字など書けないような身だ が、嵯峨中院の襖障子に貼る色紙を書いてほし いとあの入道が頻りに頼んでくるので、大層みっともないとは思うものの、仕方なく筆を取っ て書き、色紙を送った。古くから伝わる歌人の和歌をそれぞれ一首ずつ、天智天皇から家隆・雅経卿までに及んだ。


年山紀聞 211-0227(6/41)
 藤原定家が百人一首の撰者であるという説は、中世以来長く信じられてきましたが、実際には『明月記』の記事には疑問点が多く、それについて最初に指摘したのは国学者として徳川光圀に仕えた安藤為章(号を年山)でした。彼が元禄15年に著した随筆『年山紀聞』でした。為章は中院通茂に師事し、歌人としても名高く、和歌に対する考察も多く載せている。

 歌を撰いたるも彼入道にや。「難極見苦事、愁染筆送之、古来人各〃一首」とある書やうは、たゝ染筆のみにて定家卿の撰ともみえさる 。蓮生法師も歌よみて集いにも入たる人なれは、是はかりの物線はむことかたかるまし。さて又今の世の百人一首は後鳥羽順徳を巻尾に載せたるは、誰にても後に次第をあらためられたるにや。
 歌を選んだのも「彼入道」(宇都宮頼綱)なので はないだろうか。「明月記」の「大層みっともないとは思うものの、仕方なく筆を取って書き、色紙 を送った。古くから伝わる歌人の和歌をそれぞれ一首ずつ」という書きぶりは、ただ清書したことが記されているだけで、定家卿が選んだとは記さ れていないではないか。蓮生法師(宇都宮頼綱) も歌人として勅撰和歌集に採られるような人だか ら、これくらいのものを選ぶのも難しくはないだ ろう。また、現在の百人一首で後鳥羽院・順徳院 が最後になっているのは、誰かしらが後世に手を 加えて改められたものだろう。


法帖定家卿真蹟小倉色紙(集古十種) 264-0059(76)
 『集古十種』は、松平定信が命じて各地に所蔵されている古宝物2000点あまりを調査・模写させた図録集。このうち「法帖定家卿真蹟小倉色紙」は藤原定家が書写したとされる百人一首の色紙「小倉色紙」33点を模写したもの。
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 「小倉色紙」は藤原定家が宇都宮頼綱(蓮生)のために書写した百人一首の色紙そのものと考えられ、室町時代まで50枚程度が伝存していたと言われています。これらは特に安土桃山時代の茶人たちによって賞玩され、豊臣秀吉や千利休らも所蔵していました。しかし、近年の調査では藤原定家の真跡とするには疑わしいと考えられています。


時代不同謌合 201-0303(6/26)
 百人一首成立とほぼ同じころ、後鳥羽院が晩年に編んだ秀歌撰『時代不同謌合』では、左方に柿本人丸から和泉式部まで、右方に大納言源経信から宮内卿まで、時代の異なる歌人を各50人ずつ計100人を配した歌合で、各3首ずつ計300首が選ばれている。藤原定家はこの影響を受けて百人一首を選んだとする説があります。


明月記 特105-0002(18/296)
藤原定家の生涯は戦乱の中にありました。治承4年(118の9月、定家19歳のとき、以仁王の令旨に呼応した源氏が各地で挙兵。
治承・寿永の乱が始まり、定家24歳のときには平家一門が壇ノ浦の戦いで滅亡します。展示箇所は源氏追討軍が発向する際の記録で、 『白氏文集』の一句をふまえて定家が後年補筆した部分です。

九月 世上乱逆追討雖満耳不注之、 紅旗征戎非吾事
世間は謀反への追討のことで風聞がうるさいほど飛び交っているけれども、いちいちここには書かない。朝廷が敵を討伐するようなことがあっても、私には関係のないことだ。



新古今和歌集(二十一代集)  特093-0001(12/86)
 後鳥羽院の命によって編まれた勅撰和歌集。『万葉集』『古今和歌集』に並べ称され、後世に大きな影響を与えた。後鳥羽院自ら編纂に携わり、配流後も晩年まで切り継ぎ(改訂)を行った。
 藤原定家44歳のとき、元久2年(1205)に成立した『新古今和歌集』は後鳥羽院の院宣によって編纂が開始されたものです。後鳥羽院は定家の父の藤原俊成に師事した歌人でもあり、多くの歌集・歌学書を自ら編纂しました。定家も含む後鳥羽院の周辺(後鳥羽院歌壇)は時代の中心となりました。

春たつこゝろをよみ侍ける   摂政太政大臣
みよし野は山もかすみて白雪のふりにし里に春はきにけり


後鳥羽院御消息 160-0087
 後鳥羽院によってつくられた歌論書で、一般的な書名は『後鳥羽院卿口伝』。初心者向けの詠歌の心得7ヶ条と、当代歌人の批評を載せる。
 後鳥羽院歌壇で中心的な存在となっていた藤原定家ですが、『後鳥羽院御消息』で後鳥羽院は定家の強情な一面を指摘しています。承久2年(1220)定家59歳のとき、ついに和歌を巡って後鳥羽院の勅勘(勅命による勘当、おとがめ)を被り謹慎。二人は袂を分かつことになります。
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定家は左右なき者也。さしも殊勝なりし父の詠をたにもあさあさと思たりしうへはまして世の人の歌、さたにもをよはす。やさしくもみもみとある様にみゆるすかた、まことにありかたくみゆ。道に達 したるさまなと殊勝なりき。歌みしりたるけひき、 ゆかしけなり。但、引級のものに成ぬれは、しかを以て馬とせしかことし。傍若無人ことはりもすきたりき。他人の詞を聞にをよはす。

定家は並ぶものがないほどの優れた歌人である。あれほど素晴らしい父(俊成)の詠歌さえ浅薄だと見ているのだから、ましてや他の人の和歌など話にならない。優美な様子は実に稀有のものである。歌道を極めた様子など立派だ。歌を知り尽くした様子など素晴らしいものだ。ただし、引級(論争の際に弁護すること)しようとすると鹿を馬と言い張るようなところがある。傍若無人なこと極ま りない。他人の言葉を聞こうとしない。
【しかを以て馬とせしが如し】……「指鹿為馬」(『史記』) 理屈に合わないことでも無理に押し通すこと。
秦の趙高は自分に従う者を見極めるために、鹿を馬だと言い張って皇帝に献上した。これを見た皇帝は鹿だと笑ったが、趙高
を畏れる者は馬だと言い、気骨のある者だけが鹿だと言った。趙高は後者を自分に刃 向う者とみなして陥れたという。


承久記 167-0056(57/72)
 承久の乱の顛末を描いた軍記物語のひとつで、『保元物語』『平治物語』『平家物語』と併せて「四部合戦状」と称された。後鳥羽院の専制、源実朝暗殺から乱後の処遇まで、 論評を風えつつ記す
 承久3年(1221)、 後鳥羽院は北條義時追討の院宣を下して挙兵。しかし上皇方は敗北し、後鳥羽院は隠岐へと配流されます。
この承久の乱の顛末を描いた軍記物語『承久記』にはm後鳥羽院が隠岐で詠んだ和歌が載せられています。後鳥羽院は配流後も歌集の編纂を続けるなど、崩御の直前まで和歌への関心を持ち続けていました。

我コソハ新嶋守ヨ隠岐ノ海ノ荒キ波風心シテ吹
私こそが新たな島の番人であるぞ、隠岐の海の荒々しい波風よ、心して吹くがよい。


新勅撰和歌集 200-0122(6/95)
 承久の乱ののちに藤原定家の撰によって成立した勅撰和歌集。文暦元年(1234)に草稿が奏覧されたのが、のち前関白藤原道家の要望で後鳥羽院をはじめとする承久の乱関係者の和歌100首あまりが削除されて完成した。百人一首の成立もこのころと考えられており、百人一首にも承久の乱が何らかの影響を与えていると想像される。


源平盛衰記 167-0043(10/55)
 『源平盛衰記』は、平家一門都落ちの際の出来事として、藤原定家が平行盛(清盛の孫、壇ノ浦で討死)に和歌を託されたという逸話を載せます。同様に父俊成が平忠度(清盛の弟、一ノ谷で討死)の和歌を預かりながら、なかなか世 に出すことができなかったことを思い、のちに定家は行盛の和歌を『新勅撰和歌集』に載せたといいます。

左馬のかみ行盛と申は、太政入道のニ男に、左衛門のすけ安芸のはんぐはん基盛といひし人の子也。父は保元の乱の後、うぢ川にて水神にとられてうせにけり。みなしごにておはしけるが、 京極中納言定家卿に付奉り、歌道をまなび給ひけり。みやこをゝち給ふとて定家のなごりをおしみつゝ、巻物ひとつに消息ぐしてをくられたり。 まき物とは日ごろよみあつめ給ひたりける歌共也。 定家卿ひらきみたまふに、こし方行すゑの事共こまやかにかゝれて、はし書に
 なかれなは名をのみのこせゆくみつの あはれはかなき身はきゆるとも
定家これを見たまひて、かんるひをながし給ひつゝ、勅撰あらばかならずいれんと思はれけり。薩摩の守忠度の歌を、父俊成の卿のよみ人しらずと千載集に入られたる事を本意なき事に思はれけり。
左馬頭行盛(平行盛)という人は太政入道(平清盛)の次男で、左衛門佐安芸判官基盛(平基盛)という人の子である。父の基盛は保元の乱ののち、宇治川で溺れて亡くなった。なので行盛は親がいなかったが、京極中納言定家卿(藤原定家) に師事して和歌を学んだ。都を落ちるとき、定家との別れを惜しんで、巻物に手紙を添えて送った。
 巻物には日頃から詠み集めておいた和歌が書かれていた。定家が中を開けて読んでみると、来し方行く末のことが細やかに書かれており、端書(手 紙や文書の初頭や末尾に添えた語)には次のよう にあった。
 ながれなば名をのみのこせゆくみづの あはれはかなき身はきゆるとも
  (流れ落ち延びていく運命ならぱ、名前だけでも後世に残ってほしい。流れる水に浮かぶ泡のように、あわれにもはかなく我が身が消えていくとしても。) 定家はこれを続んで涙を流し、勅撰和歌集を作 ることになった際には必ず載せようと思ったのである。



定家(謡本) 特029-0001
 藤原定家と式子内親王の伝説を題材にした謡極。旅の僧の前に式子内親王の亡霊が現れ、定家の執心が葛となって内親王の墓に絡みついた といういわれを語り、僧の読経によって成仏する。
 藤原定家は、後白河院の皇女である式子内親王に仕えていました。後世、二人は身分を超えた禁断の恋の関係にあったという伝説が生まれ、様々に描かれるようになります。この伝説を題材にしたものの中で代表的なものが謡曲『定家』です。
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小倉山百人一首 201-0385
江戸時代前期に流行した芸能である古浄瑠璃(主に三昧線で語られ、人形芝居に用いられる)の正本(台本)。 藤原定家と式子内親王の恋を題材に、合戦諏や霊験讃を絡めて娯楽的に描いている。展示資料は、京の虎屋喜太夫が演じたものを、寛文12 年に山本九兵衛が出版した正本で、蔵書家として知られる石塚豊芥子の旧蔵書。
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【挿絵】自身の山荘で式子内親王(左)に百人一首を見せる藤原定家.(右)
古浄瑠璃『小倉山百人一首』は、 藤原定家と式子内親王の秘密の恋を軸に、百人一首の成立や賀茂の霊験などを絡めた娯楽的な内容を持っています。古浄瑠璃は、操り人形にからくりを多用した舞台で人気を博しました。定家と式子内親王の伝説や百人一首が、広く大衆に知られていたことをうかかわせます。

ということで、
国立公文書館の企画展「不思議な不思議な百人一首」は9月9日まで!
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