国立公文書館 企画展「不思議な不思議な百人一首」  (前編)

国立公文書館 夏の企画展は百人一首がテーマ。
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去年の夏休みにやった「ようこそ地獄 楽しい地獄」もそうですが、子ども向けの解説パネルや塗り絵やゲームなど、子供、それも小学生以下の子供を取り込もうとしている様子がみてとれます。
独立行政法人ということで予算が削られないように来館者を増やせ、というプレッシャーがあるのでしょうか。だとしたらその立場は痛いほどよくわかりますのでご同情申し上げます…。
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ということで早速みていきましょう。

Ⅰ 百人一首の世界
小倉山庄色紙和歌 特033-0005 
箱書(箱に作者の署名や押印、鑑定などを記したもの)によれば狂歌作者としてsリアれる信海(1626-1688)が書写した百二にっしゅ。金泥の下絵、霞、胡粉と雲母を用いた布目模様の料紙など、江戸時代前期に特徴的な豪華な装丁で作られています。京都学習院旧蔵。全一軸。
実物を見ると紙がキラキラしているのですが、これは雲母です。
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百人一首 特033-0006
箱書によれば歌人・能書家として知られる公卿の鳥丸光広(1579- 1638)が書写した百人一首。個性的な書風は「光広流」とも称されています。江戸時代初期の書写。京都学習院旧蔵。全一軸。
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Ⅱ 百人一首を読む

小野小町  花の色は うつりに けりないたつらに わか身よに ふる 詠せしまに


古今和歌集 200-0009(27/79)
 最初の勅撰和歌集。優雅で繊細な歌風が特徴で、平安時代の国風文化確立の大きく寄与し、中世以降も和歌の手本として尊重された。 
 小野小町の「花の色は」の和歌は、元々は『古今和歌集』春下に収められています。小野小町は多くの和歌を残していますが、藤原定家は特にこの和歌を高く評価して百人一首に採録したと考えられています。

卒塔婆小町(『謡本』ょり)  特029-0001(23)
 観阿弥の作とされる謡曲のひとつ。卒塔婆に腰かけている老女を見咎めた高野山の僧は、老女に向かって説教を始めるが逆に論破されてしまう。 老女の正体は小野小町の落ちぶれた姿だった。
 展示資料は江戸時代前期に書写されたと考えられる『謡本』のうちの一 冊で、金銀で飾られるなど、工芸品として製作されたもの。葵紋の入った 蒔絵箱に収められている。
 小野小町の生涯は謎に包まれており、さまざまな伝説に彩られています。晩年に落ちぶれて諸国を流浪したという伝説から、謡曲「卒塔婆小町」が生まれました。容色の衰えを嘆く「花の色は」の和歌のイメージとも深くかかわっていると考えられます。
高野山の僧、涙目。美人だからって幸せになれるわけじゃないんですね~
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草紙洗小町(「謡曲画誌」より)
 小野小町を主人公とする謡曲のひとつ。 小町を陥れようとする大伴黒主 は、密かに小町の和歌を『万葉集』に書き込み、歌合の場でそれを提出 して小町の和歌が盗用であると主張する。しかし小町がその『万葉集』を 水で洗うと、黒主が書き足した部分が消え、黒主の企みが顕かになる。
 展示資料は享保20 年(1735) に出版された『謡曲画誌』で、謡曲を読み物用として物語に仕立て直し、それに挿絵を添えたもの。作者は儒学者の中村三近子(1671-1741)で、挿絵は絵師のた橘守国(1679-1748)。
黒主、どうしてすぐばれるようなことを…
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在原業平朝臣 千早振神代も きかす 龍田川 からくれなゐに 水くゝるとは


古今和歌集(二十一代集) 
 古今和歌集の詞書(和歌を作った事情・背景や題を示す部分)によれば、この和歌は二条后(藤原高子、清和天皇の女御)の求めにより、屏風に描かれていた龍田川の絵を見て詠んだものといいます。
特093-0001(58/90)  表紙

伊勢物語 特033-0001(63/71)
 和歌を中心に恋愛や主従関係など様々な人間模様を、主人公の男の成人から死までを軸に描いた物語。全125段。「男」のモデルは在原業平とされる。
 『伊勢物語』では、この和歌は、主人公の「男」が仕える親王たちが龍田川のほとりを散策していた際、紅葉を見た「男」が詠んだものとされています。

京極中納言定家卿物語(和歌八部書) 202-0078(2)
 歌人である藤原定家・藤原家隆の談話を五箇条ずつ、同じく歌人の藤原長綱が筆録した歌論書。
 藤原定家は『伊勢物語』の書写に取り組むなど、在原業平にまつわる和歌や物語に高い関心を持っていたようです。その談話を記録した『京極中納言定家卿物語』の中でも、恋の和歌の読み方について業平を例に挙げています。
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壬生忠岑 有明の つれなく みえし別より あかつきばかり うきものはなし


顕注密勘 200-0055
 『古今和歌集』の注釈書で、歌人の顕昭の説に藤原定家が自説などを書き加えたもの。定家の御子左家に伝わる説を子孫に伝えるため編まれたが、総合的な注釈書として後世に広く流布した。
 藤原定家は壬生忠岑の「有明の」の和歌を高く評価していたようです。定家は和歌の中の「つれなし」を、月の様子と解釈したうえで、『顕注密勘』の中でその妖艶さを絶賛しました。
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古今著聞集 210-0137(61/119)
『古今和歌集』などの勅撰和歌集に書名・巻数・分類を倣って編まれた説話集。和歌など貴族社会の文化が特に多く描かれている。
『古今著聞集』によると、藤原定家と藤原家隆は二人とも同じ壬生忠岑の「有明の」の和歌を秀歌として挙げたといいます。定家と家隆は当時の歌壇の双璧とも評される歌人で、家隆の和歌「風そよぐなら小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける」が百人一首に採られています

大和物語 特027-0015(49/54)
 宇多天皇(867-931、在位887-897)の周辺で成立したと考えられる歌物語(和歌にまつわる説話を中心とする物語)。『伊勢物語』の影響を大きく受けているが、統一的な主人公はおらず、さまざまな人物が登場する。
『大和物語』には、壬生忠岑が機転の利いた和歌で主人を助けた逸話が載っています。忠岑の主人である泉大将(藤原定国:867-906)はある晩、酔った勢いで時の左大臣である藤原時平(801-979)の屋敷に押しかけてしまいます。時平には「いづくにものしたまへるたよりにかあらむ(どちらへお出かけになったついでにお立ち寄りになったのでしょうね)」とまで言われてしまいますが、忠岑は咄嗟 に大伴家持の和歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける) を踏まえた和歌を詠んで場をなごま

 みふのたゝみね、御ともにありみはしのもとに、、まつともしなからひさまつきて 仰せうそこ申す。
 かさゝきののわたせるはしのしものうへを  よはにふみわけことさらにこそ
となんのたまふと申す。
(屋敷が騒ぎになったとき)壬生忠岑が御供にいた。忠岑は御階(寝殿から庭に下りる階段) のたもとに松明を灯しながらひざまずいて左大臣藤原時平に)御挨拶を申し上げた。
 「かささぎのわたせる橋の霜の上を夜半にふみわけことさらにこそ(御階に置いた霜の上を、 この夜更けに踏み分けてわざわざ参りました。 よそへ出掛けたついでなどではありませんよ。) と、大将殿は仰せです」と申し上げた。 (125段)



平兼盛 忍ふれと色に 出にけり 我恋は ものやおもふと 人のとふまで


内裏和歌合 201-0105(16/28)
 天徳4年3月jに内裏の清涼殿において行われた歌合を記録したもの。一般的な書名は「天徳四年内裏歌合」等。大規模な歌合で、参加者の服の色まで趣向が凝らされたという。構成の歌合に大きな影響を与えた。
 平兼盛の「しのぶれど」の和歌は、「天徳四年内裏歌合」の右方において披露されたものです。対して左方は壬生忠見の「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか(恋をしているという私のうわさは早くも広まってしまったようだ、人知れず思い始めたばかりなのに)」でした。両者の勝敗はなかなか定まらず、村上天皇が自ら「しのぶれど」の和歌を呟いたことでようやく決しました。
私(勝敗を決する判者の藤原実頼)が「左右の歌は共にすばらしく、勝敗を決めることができませ ん」と申し上げたところ、帝は「どちらもまことに 素晴らしい。しかし勝敗は決めるべきだ」と仰せられた。私は大納言源朝臣(源高明のこと)に 判定を譲ったが、彼は平身低頭して答えない。このあいだ、左右の人々は互いに和歌を詠みあげて、自分たちの勝ちを主張しているようだった。私はしばしば帝のご様子をうかがったが、なかなかご判定はされず、密かに右方の和歌をお詠みになった。源朝臣はこっそりと「帝のお気持ちは右方にあるようだ」 と言うので、右方の勝ちとした。考えるに、持(引 き分け)でもよいのではないか。左の歌も大変よろしい。
実頼、源朝臣、帝、それぞれが判定の責任を擦り付け合っているように見えるのは、私が保身を考えるようになったからでしょうか。

沙石集 210-0145(29/46)
 啓蒙書として編まれた仏教説話集だが、世俗的な記事も多く同時代の様子を伝える。『徒然草』に影響を与え、また狂言・落語の出典にもなり、近世以降に広く流布した。
 『沙石集』には「天徳四年内裏歌合」の様子が描かれ、平兼盛と壬生忠見の勝敗についての逸話が見えます。会心の出来だった「恋すてふ」の和歌が、兼盛の「しのぶれど」の和歌に敗れた忠見は、ふさぎこむあまりついに亡くなってしまったというのです。
 共に名歌であったので、小野宮殿(判者の藤原実頼のこと)はしばらく帝の御意向をうかがっていたが、 帝は兼盛の歌を二三回口ずさまれたので、兼盛が勝ち となった。忠見は落ち込み、胸がふさがるような心地 がして、それから物が食べられない病になってしまっ た。回復の見込みがないと聞いた兼盛は、忠見のもとへ見舞いに訪れた。すると忠見は「病気というのはほかでもない、歌合のとき、名歌を詠むことができたと 思いましたのに、あなたの『物思いをしているのかと 人が尋ねるまで」という和歌を聞いて『ああ』と思い、 実に驚いて胸がふさがり、このように重くなってしま ったのです」と言い、ついに亡くなってしまった。
兼盛「悪いのか、俺が悪いのか?」

袋草紙 201-0749
 歌人の藤原清輔が編んだ歌論書で、歌合や勅撰和歌集の故実や交渉、さらには歌人にまつわる逸話などを収める。藤原清輔は和歌「ながらへばまだこのごろやしのばれむうしと見し世ぞ今は恋しき」が百人一首に採られている。
 『袋草紙』によれば、 一条天皇の中宮彰子に仕えた女房の赤染衛門(生没年未詳)は平兼盛の娘だったといいます。赤染衛門もまた女房三十六歌仙に数えられる歌人で、その和歌「やすらはでねなまし物をさよ更けてかたぶくまでの月を見しかな」が百人一首に採られています。
赤染衛門は赤染時用の娘である。 時用が右衛門尉だったので、赤染衛門と呼ばれた。本当は平兼盛の娘で ある。兼盛は、妻と別れたあとに娘が生まれたことを 知り、引き取ろうとしたが、妻がこれを拒否したため相論(言い争うこと、訴訟して争うこと) になった。
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小式部内侍 大江山 いくのゝ道の とをけれは まだふみも 見す あまのはし たて


金葉和歌集 200-0062(84/111)
 白河院の院政期に歌人の源俊頼に命じて編まれた勅撰和歌集。東大の歌人を多くとり、構成もそれまでの勅撰集と大きく異なる点が特徴。
 小式部内侍の母である和泉式部は高名な歌人であったため、代作をしてもらっているといううわさがあったようです。『金葉和歌集』には、小式部内侍が藤原定頼(朝ぼらけ宇治の川ぎり絶えだえにあらはれわたる瀬々の綱代木)を巧みな和歌でやり込める逸話が載っています。

和泉式部、保昌にくして丹後の国に侍ける比、都に 歌合侍けるに、小式部内侍、歌よみにとられてけるを 中納言定頼、つほねのかたにまうてきて「歌はいかゝせさせ給ふ。丹後へ人はつかはしけんや。つかひはいまた まてこすや。いかに心もとなくおほすらん」など、たはふれてたちけるを引とゝめてよめる
  小式部内侍
おほえ山いくのゝ道の遠けれはまたふみもみす天の橋立
和泉式部が夫の保昌(藤原保昌のこと、この頃は丹後守)に付き添って丹後の国にいた頃、都で歌合があり、小式部内侍が歌人に選ばれた。
 中納言定頼(藤原定頼)は、小式部内侍の局にや ってきて「和歌はどうなさいました?丹後の母上のもとへ代作を頼む使者は送りましたか?まだ戻ってこないのですか?それはさぞ気掛かり でしょうね」などとからかうので、立っているところを引きとどめて詠んだ歌
大江山…


十訓抄 203-0098
 10ヶ条の徳目に説話を分類した説話集で、序文によれば年少者の啓蒙のために編まれたという。平家一門に関連する逸話には、編者がその生活圏に於いて直接見聞きした形跡のあるものが多く、編者の出自が類推される。
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【挿絵】藤原定頼(左)を引き留めて和歌を詠む小式部内侍(右)
 「大江山」の和歌は『金葉和歌集』の詞書の通り、説話と一緒に広く流布したようです。鎌倉時代に成立した説話集『十訓抄』にも「人倫を侮らざる事(人を馬鹿にしない事)という項目に、この逸話が載せられています。

後拾遺和歌集(二十一代集) 特093-0001(109/119)
 白河天皇の下命によって藤原通俊が編んだ勅撰和歌集。女流歌人の和歌を多く収め、中でも和泉式部は67首に及ぶ。
 小式部内侍は出産の際に若くして亡くなったと伝えられています。『後拾遺和歌集』には母の和泉式部が、娘の死を悼んで詠んだ和歌が収められています。哀傷歌(人の死を悼む和歌、挽歌)の傑作と言われています。

小式部内侍なくなりてむまこともの侍けるをみてよみ侍ける
とゝめをきて誰を哀とおもふらんこはまさるらんこはまさりけり
小式部内侍が亡くなって、残された孫たちを 見て和泉式部が詠んだ歌
とゝめをきて誰を哀とおもふらんこはまさるらんこはまさりけり (私たちを残して行ってしまったあなた は、誰を不欄に思うのでしょう。きっと母親 の私よりも我が子のほうを想っているので しょう。私も、娘のあなたのことをこんなに も想っているのですから。)




崇徳院 瀬をはやみ 岩に せかるゝ 瀧川の われても すゑに あはむとそ思ふ


詞花和歌集 200-0112(37-38/73)
 崇徳院の下命によって藤原顕輔が編んだ勅撰和歌集。『後拾遺和歌集』の世代の歌人を多く採り、当代の歌人は原則一人一首に厳選している。新奇な和歌が多く、批判を多く呼んだこともあり、崇徳院は改撰を計画していたとされる。
 「瀬をはやみ」の和歌は『詞花和歌集』から百人一首に採録されました。恋の部に「題しらす 新院御製」として見えます。「新院」とは崇徳院のこと。『詞花和歌集』の編纂を命じるだけでなく、自身も高名な歌人でした。

崇徳院御百首 201-0263(8/104)
 一般的な書名は「久安六年御百首」「久安百首」等。崇徳院が13人の歌人に命じて百首ずつ詠進させた百首歌(100首を単位とする和歌のこと)。のちに藤原俊成(1114-1204)に部類(主題別に編集すること)が命じられたが、保元の乱のために最終的な完成形を奏覧することができなかった。
 「瀬をはやみ」の歌は元はこの『崇徳院御百首』のために詠まれた恋の歌でしたが、『詞花和歌集』に収める際に語句が変更されたことがうかがえます。この部分は崇徳院自身が手を加えて推敲したと考えられています。


保元物語 203-0169
 崇徳院と後白河天皇の対立に端を発する保元の乱(1156)の顛末を描いた軍記物語。全3巻。特に崇徳院方について奮戦した源為朝の超人的な活躍が中心となって描かれる。
 皇位継承をめぐって崇徳院と後白河天皇は対立。やがてこの対立は様々な勢力を巻き込んで、保元の乱へと発展します。敗れた崇徳院は讃岐に配流され、無念のうちにその地で崩御しました。軍記物語『保元物語』にはその顛末が描かれています。
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【挿絵】(左)軍勢を迎え撃つ源為朝  (右)崇徳院が配流された讃岐の様子


源平盛衰記 167-0043
 治承・寿永の乱を軸に源氏と平氏の攻防を書いた軍記物語。源氏に関する記述や中国の説話・古事など『平家物語』を大幅増補した内容を持つ。謡曲や浄瑠璃など後世の芸能に大きな影響を与えた。
 崇徳院は朝廷を恨み、髪も伸ばし爪ものばしたまま生きながら「魔縁(天狗・魔物)」になったと軍記物語は伝えます。激情的な恋の和歌「瀬をはやみ」は崇徳院の波乱万丈の生涯を想起させるものとして百人一首に採られたのかもしれません。
【挿絵】配流先で魔縁となった崇徳院の様子(21/51)
【挿絵】配流先を訪れて崇徳院を供養する西行法師(25/51)
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